プログラム・ディレクター 柳美里からのメッセージ

「わたしが手にした糸の端」

 2018年1月2日、わたしは平田オリザさんに1通のメールを送りました。
 オリザさんとわたしの共催で、福島県の浜通りエリアで舞台芸術祭を実現できないでしょうか、という呼びかけでした。
 第1回は2020年の夏に開催したい、と書きました。その理由は、2つありました。
 1つは、原発事故で寸断された浪江駅、双葉駅、大野駅、夜ノ森駅、富岡駅の20・8キロがつながり、2020年春にJR常磐線が全線開通するということ。
 もう1つは、2020年夏に予定されていた東京五輪でした。
 わたしは、オリンピックを観戦するために首都圏に集まる多くの人に、常磐線に乗って福島県の浜通りを訪れてもらいたい、と考えたのです。
 オリザさんへのメールは、わたしが南相馬市の臨時災害放送局でラジオ番組を担当し、もうじき600人の地元住民のお話を収録することになるということ、息子が南相馬市内の公立高校に入学し卒業したこと、避難指示が解除されて間もない南相馬市小高区で暮らしながらブックカフェ「フルハウス」を営んでいることなど、2011年3月11日以降のわたしの活動をお知らせするところから書きはじめました。

 返信のメールは、すぐに届きました。
「まず、演劇祭についてですが、こちらはいかようにでもお手伝いできると思います。もちろん、手伝いだけではなく、中心になって働きます」「福島に関しては私も覚悟を決めている」という平田オリザさんの言葉に接した時、わたしはどんな困難に直面してもそれを克服して、舞台芸術祭を実現しよう、という意志の力を持ったように思います。

 でも、実は、その時はまだ、わたしは平田オリザさんときちんとお話ししたことはありませんでした。
 一度だけ、道でばったりお遭いしたことがあります。
 2000年の春のことでした。当時、わたしは渋谷区松濤のマンションで暮らしていました。15年間連れ添った、劇団「東京キッドブラザース」の主宰者である東由多加を癌で亡くし(東の享年は、現在のわたしと同じ54でした)わたしは生後3ヶ月の息子を独りで育てていました。『命』という作品を週刊誌に連載していた頃のことです。
 わたしが主宰している「青春五月党」は、1995年に草月ホールで上演した『Green Bench』を最後に休眠状態で、わたしは小説に軸足を移していました。
 図らずも、わたしのマンションから徒歩10分の場所に「こまばアゴラ劇場」(平田オリザさんが主宰する「青年団」の拠点劇場)はあり、息子をバギーに乗せて散歩する時は必ずアゴラの前を通りがかっていたのです。息子が大きくなるまで演劇は無理だな、と思いつつ青年団の新作ポスターを憧れの眼差しで眺めていたことを憶えています。
 わたしは二十歳の頃から青年団の芝居を観ていました。
 平田オリザさんが創り出す世界には、平凡な人間の内にある襞のような起伏が精緻な台詞に忍ばされていて、終演後、劇場の外へ歩き出すと同時に、現実世界に叙情の静けさが広がる——、それまでの演劇には無い「目覚め」と名づけてもいいような新しさがありました。
 青年団の旗揚げが1983年、青春五月党の旗揚げが1987年、新聞や雑誌などで若手の注目劇団として共に特集されることもありました。
 一度もお会いしたことはなかったけれど、わたしは平田オリザと青年団のことをよく知っていたのです。
 2000年の春、31歳のわたし、に戻ります。バギーを押して松濤からアゴラ劇場のある通りへ下りようとしていた時、坂の下からオリザさんが上ってくるではありませんか——。
 擦れ違った瞬間、「平田さん」とお声がけして、わたしはバギーの中の息子を紹介しました。ほんの30秒ほどの立ち話でした。

 2018年4月9日、わたしは「フルハウス」を開店し、計17回の土曜イベントを開きました。第1回目の4月21日は詩人の和合亮一さんの朗読会でした。
 和合さんとわたしは同じ1968年生まれで、物書きとしてのデビューもほぼ同時期です。
 朗読会に、和合さんの中学校の同級生である森崎英五朗さんが参加してくださり、次男の陽くんが「福島県立ふたば未来高等学校」の演劇部に所属しているということを知ったのです。
 「警戒区域」に指定された双葉郡内の5つの高校は休校を余儀なくされました。双葉郡8町村の強い要請によって、2015年4月8日に開学したのが「ふたば未来学園高等学校」なのです。
 森崎さんは5月に陽くんといっしょにフルハウスを再訪し、本を購入してくださいました。
「部活動を見に来てください」と陽くんに誘われて、「うん、行くよ」と約束し、「突然行ったらみんなびっくりするから、顧問の先生の連絡先を教えて」と、わたしはその場で先生のメールアドレスを教えてもらいました。

 5月20日、わたしは広野町のふたば未来学園高校演劇部の部室を訪ねました。
 1年生、2年生、3年生が3つのチームに分かれて、学校生活の1年間をまとめた10分ぐらいのエチュードを発表していきました。いちばん人数の多い2年生は、芝居仕立てではなく、半円になって思い出を語り合おうという方向性だったのですが、右端の森崎陽くんと左端の大田省吾くんの二人だけが一生懸命しゃべり、真ん中に座った女子生徒たちはその会話に全く加わらずに黙っていました。部活終了時に、顧問の小林俊一先生が、「どうして何も話さなかったの?」と質問したところ、女子の一人が「つまらないから」と横目で睨んで呟きました。
 俳優としての表現以前の、反感を剥き出しにしてみたり、気取ったポーズをとってみたり、わざとつまらなそうにしてみたりしている思春期の自意識に照らし出された彼らの顔が、わたしにはとてつもなく魅力的だったのです。
 まさに青春、五月の出会いでした。
 彼らとならば、四半世紀のあいだ休眠させている青春五月党を復活できる、と確信しました。
 2018年9月、青春五月党は、ふたば未来学園高校演劇部の16歳から18歳の13人の生徒たちと共に、フルハウス裏にあった古倉庫で「静物画」を上演し、復活を果たしたのです。

 そして、平田オリザさんは、ふたば未来学園高校に開学から関わり、生徒たちが演劇を創作する過程で身に付ける合意形成能力や表現力で、福島県や双葉郡のことを国内外に発信できるようになってほしいと演劇教育の導入に力を尽くされていました。
 坂の途中での30秒から18年を経て、わたしと平田オリザさんは同じ場所に立っていたのです。

 2018年、2019年の2年間、わたしは「常磐線舞台芸術祭」を実現させる上で重要だと思われる方々にメールを送り、何人かの方には直接お目にかかり、お話をしました。
 今回実行委員に加わってくださっている小松理虔さん、相馬行胤さん、古川日出男さん、和合亮一さんです。
 開催自治体の首長や担当部署の方々、開催施設の方々、地元住民の方々、地元メディアの方々、協力企業の方々にもご説明やお願いをして歩きました。
 プログラムの内容も、平田オリザさんと話し合って固めていきました。
 2020年3月14日、JR常磐線は9年ぶりに全線開通しました。
 しかし、コロナ、です。
 常磐線全線開通の翌月、緊急事態宣言が発出されました。
 不要不急の帰省や出張や旅行などの県外への移動に対しては自粛が促され、密閉・密集・密接の「3つの密」がある集まりには中止や延期などの対応が要請されました。
 常磐線全線開通のお祝いムードは、瞬時に吹き消されてしまったのです。
 雲雀ケ原祭場地(南相馬市原町区)で行われる相馬野馬追の神旗争奪戦も、新盆を迎えた家を訪ねて御霊を慰めるいわきの「じゃんがら念仏踊」も、福島県内のみならず全国の祭やイベントの中止が次々に発表され、東京オリンピックまでもが1年延期されました。
 わたしは「常磐線舞台芸術祭」の開催を断念し、関係者に中止を伝えるメールを送りました。
 コロナのパンデミックはその後もつづき、波を重ねるごとに感染者数は多くなり、南相馬市内でも閉店に追い込まれる飲食店が増えていきました。

 2021年2月13日、福島県沖を震源とするM7・3(震度6強)の地震が起きました。
 フルハウスを含む我が家も「一部損壊」となり、家具、電化製品、食器——、家財という家財がことごとく壊れました。わたしたち家族は軽トラックをレンタルし、自宅と隣町にあるクリーンセンターを何往復もして、家財を廃棄し、借金をして建物を補修し、様々なものを購入し直しました。
 しかし、1年後の2022年3月16日、同じ震源域でM7・4(震度6強)の地震が起こり、我が家及びフルハウスは再び「一部損壊」となってしまったのです。
 全国的な報道量は極めて少ないですが、1年以上が経った現在でも、雨漏りを防ぐために自宅の屋根をブルーシートで覆う応急処置でしのいでいるお宅がまだたくさんあります。特に被害の大きかった相馬市では、業者の人手不足が深刻で、半壊以上と判定され公費で解体されると決まった建物1169棟のうち、解体工事が完了したのは43%にあたる500棟だということです(2023年3月現在)。

 東京電力福島第一原子力発電所の廃炉措置に要する時間は40年と発表されています。これから、燃料デブリの取り出しをはじめとした極めて難易度の高い作業や工事が数多く控えています。
 今後も福島県浜通りの住民は、原発処理水の海洋放出、水産物の風評被害の懸念、原発事故の追加賠償の指針、双葉町と大熊町の「中間貯蔵施設」で管理・保管されている除染土壌や放射性廃棄物を30年以内に福島県外で最終処分するための取り組みなど、立場によって条件や意見の分かれる事柄に直面しつづけなければならないのです。
 原発事故以降、様々な線が引かれました。
 それは、この地域で暮らす人びとの中に分断や対立や摩擦を、暮らしの中に痛みや苦しみをもたらしています。
 南相馬市小高区に暮らす友人は「人と顔を合わせたり話したりするたびに、ささくれ立って、痛い」と語っていました。
 線という言葉は、分断や対立に用いられることが多いですが、文字としては糸と泉で成り立っています。
 線は、人間の本源が対立ではなく、混じり合うところにあるということを表している、とわたしは思います。

 全ての芸術の本質は対話にあります。
 文学、音楽、美術、写真、演劇、舞踊、演芸、映画——、その創り手は、自分自身の耳ではない誰かの耳に向かって呼びかけ、自分自身の目ではない誰かの目に向かって訴えかけ、自分自身のものではない誰かの感覚を揺さぶろうとするのです。
 それは、自分の内に他者を招き入れる行為でもあります。
 自分と他者の置かれた共通の、あるいは全く異なる状況を理解して、同じ場所と時間の中で生きていかなければならない福島県民にとって、舞台芸術の果たす役割は単なる娯楽以上のもの、孤絶している人にとっては魂の命綱になり得るものだと思います。

「常磐線舞台芸術祭」第1回のテーマは「つなぐ、」です。
 まず、つなぐ、という意志を持つ。
 つなごうとした指先が届かなかったとしても、つないだ後に再び隔たりが生じてしまったとしても、わたしから出発してあなたへと向かう、その軌跡が糸となり泉となるのではないでしょうか?
 常磐線という一本の線のほとりに、いくつもの泉が湧き上がり、その水が広がって一つの美しい湖が誕生する奇跡が起きることを、わたしは祈っています。

柳 美里

プログラム・ディレクター 柳美里からのメッセージ「わたしが手にした糸の端」
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